[GW5日目] #平成を振り返る その2 [ #令和最初の日 ]

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令和早々、次女が帰ってこないとか、連休中にやらなきゃならんだろう仕事に以来が降ってきたりとか、てんやわんやな幕開けのしょっさんです、おはようございます。

だらだらと書き綴ってしまった所為で、ゲームの小話ばっかりになった上、時間ばっかりかかってしまった振り返りをもっと気楽に進めていく所存です(うまくいったことはない)

#令和最初の日

「あけおめ」と言われましたけれども、改元を「明ける」と表現すべきかどうか悩み込んだ今日このごろです。平成の最中に「レゴ(LEGO) アーキテクチャー サンフランシスコ」を作り上げることができて、満足しています。

#平成を振り返る II

さて。平成6年からですかね、今日はある程度進めていきたいと考えています。考えるだけは。せめて21世紀に入りたいです。いつまで20世紀の話をしてんだ、こら。

平成6年

高専の最高学年5年生になった年ですね。最後だけにいろいろなことをした気がします。「学生生活最後だから」がみんなの合言葉でした。

このとしは、翌年へのプロローグと言うか松本サリン事件が起きました。そして村山富市政権になったときです。今、かんがえると社会党(現社民党)がそんなに力を持っていたことを信じにくい感じもありますが、当時はなんでそんな事になったんでしょう。しょっさんに政治は分からぬ。

オウム真理教といえば、わが杉並区は拠点の一つでした。学校の近くに道場もありましたし、政治活動中は、最寄りの駅前にはいつも増産を被った信者がたくさんいました。彼らは小中学生向けにオウム真理教を学ばせるために、麻原彰晃の漫画を通学路で配っていて、バブルの時代に杉並区北側の小中学校では100%の生徒がその存在はもちろん、麻原彰晃が何をやっていたかを知っているような地域でした。とんねるずの番組にも出ていたし、当時は一大ムーブメントだったとも言えます。松本サリン事件のときも、当初はオウム真理教とは関係のないところでの捜査が進んでいましたし、人が亡くなったとは言え、コトの重大さがまだよく理解できていなかった10代でした。のほほんと暮らしすぎてましたね。なので、オウム真理教のことを思い出すことはできても、この松本のサリン事件については、あまり思い出せる事項が少ないというのが、今の印象です。10代最後の年というか、二十歳を迎えるときだったので、浮かれすぎて他のことには一切興味がなかっただけかもしれません。

そんな1994年。実はゲーム業界は激動の年でした。わたしは翌年になるまで購入できませんでしたが、年末商戦に合わせた11〜12月に、セガサターンを皮切りに、プレイステーション、PC-FXと超ど級にアップグレードされたハードウェアが発売されました(プレイディアとネオジオCDとスーパー32Xについては、忘れて差し上げろ)。
学生の身分では指を咥えて見ていることしかできませんでしたが、知り合いが発売と同時にプレステを買っていてくれたおかげで、リッジレーサーだけは、無事に94年中にプレイすることができました。まさに、ゲームの進化を垣間見た瞬間でした。ついに、ホームゲーム機がアーケードゲームを超えたときだったんですよ。これ以後はむしろホームゲーム機のコアチップがアーケード筐体に入ることもあり、ゲームセンターでのゲームの差別化が難しくなった頃でもあります。昭和に流行った体感筐体も廃れてきていて、1台数百万といった筐体は売れず、ゲームセンターへの客足も途絶え気味でした。その後、一般的なゲームセンターは廃れていって、ハイエンドなゲーム筐体を有する複合型アミューズメントセンターとなっていくわけです。あとはプライズに特化するゲームセンターですね。都市部はプライズやプリクラに特化したゲーセンが、今でも廃れずに生き残っています。

この頃は、もうゲーセンに行くようなことはほとんどなく、主要なアーケードゲームというと「デイトナUSA」や「豪血寺一族」、「極上パロディウス」なんかですかね。ただ、ネオジオだけホームゲーム機とともに歩む道を目指して、真侍魂で天覇封神斬を量産させたりうまいことやってました。今でも天覇封神斬だけは出せます。

活気づき始めたのは、前年の同級生におされてエロゲが増え始めてきたとこでしょうか。菅野ひろゆき(当時、剣乃ゆきひろ)がDESIREを発売して、EVEへの道を作り出します。ドラゴンナイトは4になり、野々村病院の人々や学園ソドム、SEEK、悦楽の学園、などこれまでとは方向性の違うジャンル(監禁/禁忌系)が増えてきます。が、まだこのころはこういったものにも手をつけずに、X68kのフリーソフトゲームでよく遊んでました。

この年によく覚えているX68kのゲームと言えば。あすか120%、アルゴスの戦士(電波移植版)、エキサイティングアワー(電波移植版)、スーパーストリートファイターII、卒業、大魔界村、ぷよぷよ、パックランド(専用コントローラ付き)あたりですか。パックランドは今でもコントローラごと残ってます。なんでだろ。本数的にはがくっと激減したものの、豊作な年だったとも言えましょう。9801版と同じくエロゲも同発売日で出荷されていたので、ドラナイ4などを手に入れることもできました。が、しかし、結局われわれが集まってやっていたゲームと言えば、ぼよよんでしょう。今でも配布されててヤバイ。音声ファイルを自前で作ることができたのが特長です。配布されてたナウシカがやばすぎて、連鎖すると「やめて!もう殺さないで!!」→「わたしじぶんがこわい・・・っ」→「憎しみに駆られて、何をするか分からない」→「もうこれ以上、誰も傷つけたくないのに・・・!!」とか続いていくとか、謎の所業すぎました。調子にのって自分らもたくさん作っては、友人にぶっ倒されてましたね。

就職活動。人生はじめての就職活動をしてました。「大学行きまーす」なんて言いながら、推薦の枠まで確保しつつ「やっぱり働きまーす」と切り替えてしまったので、担任の岩岡先生には申し訳ないことをしてしまったと今でも反省しています。「(大学行かないなら、なぁわかってるよな)」という口には出さないけれども、妙なプレッシャーをかけられていることは分かってました。分かっていながら、同級生の友人らとは「5月までは遊び倒して、そっから就職活動しようぜ」なんて謎の協定を結んでは、毎週末、我が家で泊まり込みで遊び倒してました。いや、ホント元気だったな、自分たち。で、ぼよよんをやっては、内田くん(呼称がざわざわする。ワイルドって呼んでる)に負ける週末でした。

担任のプレッシャーはその後も半端なく(亡くなった方を悪く言うつもりは全然なく、良くしてくれたという意味合いです)、IBMへの枠も確保してくれば、OBを学校に呼んで就職指南までしてくれました。この至れり尽くせりの状態のおかげか、私の実力か、スムーズに一発でIBMから内定をもらうことができました。スムーズすぎて「騙されてんじゃないか…」みたいな気分になったことも覚えてます。なお正確には、当時は三社分立していたので、サービス株式会社から内定もらってました。その後「今年は内定一つで就職活動終了だから」と就職活動をとりやめさせられ、なんか闇の力に支配されていた気分になりつつも「会社決まってラッキー」みたいな感じで学生生活の余生を過ごします。

でもね、ホントふつーにこのときは就職決まるとは考えてなくて、練習がてらに就職試験を受けて、雑もいいとこな面接をしたのに何故OKがでたのかは就職するまでは謎でした。もうあまり覚えてませんけど、当時の面接の内容を書き記しておきます。

  • 面接官「今日、考えてきたこと全部話して」わい「(見透かされすぎてる)御社を選択した理由は(〜)、自分がこれまで(〜)」
  • 面接官「はい、じゃここから本番ね」わい「(やられた)」
  • 面接官「都内じゃなくて、赴任になってもいい?どこで働きたい?」わい「北海道です!( ー`дー´)キリッ」面接官「なんで?」わい「行ったことがないからです!!」面接官大爆笑「スキーが好きだから、とかそういう理由じゃないの」わい「あ、スキーも好きです」
  • 面接官「うちの社長知ってる?」わい「知りません」面接官「日本国内に3箇所工場があるんだけど知ってる?」わい「知りません( ー`дー´)キリッ」面接官「wwwwwwwwwwwまぁ会社入ればわかるから、今知らなくてもいいよ」わい「(何やこれ、予定調和感ある)」

まだ他に面白い逸話あったんだけど思い出したら追加します。こんな感じで、わきあいあいと、むしろウケを取ってきた感あるんですが入社してみたら、この面接の内情がわかったので、まぁこんなもんかという感じです。ちなみに、採用決定した理由は聞かれたら答えます。

こんな感じで、早々に夏休み前に就職先内定してしまったので、夏休みからは卒業研究にも手をつけずに遊び回る学生最後の年でした。確か、夏は3回くらい海へいって、冬は2回くらいスキーいってました。お金は貯金崩していったので、ちょっと馬鹿な気もします。夏が終わった頃にはバイト辞めてしまってたんでね。そう、4年も仕事してたので最長老で年齢の割にはいろいろ権限持つまでにもなっていたのに、周りの人らに何も言わずに「卒検真面目にやるんでバイト辞めます( ー`дー´)キリッ」ってやめてからは、バイト仲間にさんざん文句を言われたの覚えてます。それでも、しばらくは一緒に飲み会へ行ってましたけどね。

卒業研究は、当初 telnet 作ろうとしていたのが、面倒で厄介というか DECのワークステーションがメモリ少なくていろいろ動かなすぎたりしたので、最新の98ノートでパソコン通信ソフト作ってました。ゼミの先生がほしいと言うので、作ったという謎仕様ですけど、初めて9801のC言語(Turbo C)で作ったのに、ちゃんと動いたの素晴らしかったと思う。卒業論文は「InternetとTCP/IP」に関する何かを「LaTeX」でまとめて提出したの、自分ホントえらいと思います。Internet のこと書いてるのに、途中からパソコン通信の研究になって、それが最終的にできあがったパソコン通信ソフトウェアであるみたいな、謎の流れでよく卒検優秀賞くれたな、とか思います。出来レース感ちょっとハンパなかったけど。あ、この部分は1995年の話か。

おい、平成6年長すぎだろ。

平成7年

卒業です。個人的にも激動の年ですが、社会と言うか、日本国内がそれ以上に激動の年すぎました。

「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」「もんじゅナトリウム漏れ事故」とか、天災とテロと人災とすべてのジャンルの災いが集中した年です。前者2つに関しては、当時のこと、ものすごくよく覚えています。

今でこそ、5時台に起きてしまうようなおじいちゃんになりましたが、当時は学校があっても8時に起きるような悪い子でした。6時に目が覚めるなんてもっての外です。にもかかわらず、1月17日は 5:47に目が覚めたのです。なぜか。東京にいたので、計測上の震度は0です。ですが、なぜか目が覚めた。不思議な感じでしたけど、何もなかったので、そのときはそのまま二度寝してしまったんですね。で、二度寝から覚めてみれば、大惨事ですよ。衝撃の事実。5:46:52 に淡路島を北部を震源とした阪神大震災が発生したのです。なんかが伝わってきたんですかね、びっくりしましたよ。普段起きないのに、目が覚めたんですから。そして、テレビでは高速道路が倒れてたり、ビルが諸々なくなってたり、衝撃的すぎてその前後はほとんど何も覚えてませんでしたよね。

そして、3月に入っての「地下鉄サリン」です。もう学校はお休みに入っていて、友人らがうちに昼間から集まって遊ぶ約束してたんですね。卒業式を待つばかりだったんで。がしかし、朝からこのテロがあったことにより、都内の交通網は完全に停止。5人くらい来る予定だったのが、我が家にたどり着いたのは一人だけ。それも、車で戻ることができないので、何時間もかけて我が家に来るしかなくたどり着いた、という感じ。それでも、吉野家の牛丼お持ち帰りもってきてくれてありがとう、市川くん(普段は君付けしないので、やっぱり鳥肌立つ)。電車で来る予定だった人らは、電車が止まってこられず、他の車メンバーも渋滞ひどくて動けないので来れず。自分に影響のないことって、ニュースを見て洋画それほど実感が無いのですが、こうやって何らかの影響があるとその大きさ・甚大さを感じ取ることができるわけです。そんなに遠いわけでもない友人らが、到達できないってよく考えたら、ものすごいヤバイことですよ。そりゃ、中心地で起きたことはもっと信じられない、ヤバイ所業ですが。

ちなみに、麻原彰晃が捕まったのは、わいの誕生日である5月16日でした。

そんな感じで卒業式を迎え、酔っ払った状態で意味不明なことをスピーチしてたりとか「ああ学生生活も終わりだなー」を変な感じで過ごしていったのです。

そして、待ちに待った「社会人」。当時はまだ六本木一丁目とかいう駅もなく、六本木のIBM本社での入社式は、どこの駅からも遠くてめっちゃ難儀しました。恵比寿から歩いてと言うか走っていったんですが、見事に遅刻をしまして。入社式に。わたしは、新社会人一年生と言うのに、入社式に遅刻をしまして。座ったら、目の前で社長(当時は北城恪太郎社長)が演説をしているわけですよ。いやーびっくりですね、目があいましたよ。

1995年はいわゆる就職氷河期の真っ只中で、バブル期に数千人も新卒をとっていたIBMといえども、94/95はめっぽう少ないんですね、新卒が。壇上に上がれば全員の顔が分かる程度の人数しかいなかったわけです。しかも、なぜかわたしは社長の正面の席。「どうせ暗いからわからないだろう」とか思いましたが、めっちゃ見られてましたね。あれは見えてましたね。当時は見えてないだろう暗いし、なんて考えてましたが、登壇する側になってわかったことは、後ろから端まで全部見えんですよね。暗くても。20歳のうら若き社員がやってしまいました。個人的には、本社が駅から遠いのが悪い、とか思いましたが、事前の下調べ何もしてないほうが悪いですね、自分。

そんな感じで社会人不適合の感じで社会人生活を始めたものの、IBMというのはとても素晴らしい会社でして、当時は10月終わりまでずっと研修なんです。現場とは完全に隔離された状態で。集合研修もそこそこに、4日目あたりからは事業単位での研修に分かれるんです。わたしはハードウェアのカスタマーエンジニアとして入社しまして、全部で24人(+1人)です。この人数で4月から10月まで一緒に研修だけで過ごすという日々です。学校生活の延長みたいなもんですよ。勉強して試験をやって、ただその内容が業務に特化しているだけで。当時、すでにフルスタックだった自分にとって、技術的なことはとても楽だったんですけど、ヒューマン系の学習がヒジョーに大変でした。お客さまとの面談のロールプレイとか、当時は電話のとり方なんかもありましたね。グループワーキングでアウトプットを作ったり、OHPに書いて発表したり。C言語などの研修でも、プログラムは書くものの、アルゴリズムの部分は手書きで作って発表したり。模造紙に書いて発表とかも多くて、ホントしんどかったですね。まぁそんなしんどかったものの、最後に金時計もらったんですけどね(分かる人にはわかる自慢)。

朝から晩までずっと研修というツライ反面、まだ新しい社会人生活というモチベーションと、新しい仲間との緊張感で半年におよぶ研修は楽しかった思い出ばかりですね。まだザウスがあったんで、海浜幕張からの帰り道にみんなでいってみたり。みんなでなかよくご飯いったり、飲み会で騒いだりとか、誰かのお家いって遊んだりとかお金ができると違う遊び方も増えていったり、自由な時間も変わってきて何もかもが新鮮でしたね。そういえば、一人、わいと同じ病院で生まれたのもおったりして、びっくりしました。十和田市立中央病院なんですけど、わいのおじさんの家のある隣町で過ごしてたらしく、地元話が通じまくって感動しました。生まれて初めてでしたわ。

そして、はじめての一人暮らしを始めたのもこの年です。「働き始めたら一人暮らしをする」という目標だけで当時は生きてきていたので、とにもかくにも引っ越しが再優先事項でした。お金もないし、会社からの負担金もない状態だったので、婆様に借金して行徳で住み始めました。引っ越し前にカーテンも買わず、ガスもお願いするの忘れていて、12月に水風呂に入るとかいう苦行も乗り越えました。それから「お金がない」ってこんなことかというのをあらためて感じました。人生で「あ、これはやばい」って初めて感じたのが、お金のない恐怖でした。一般的な社会生活を送るには、まず「金」ということを痛感しました。

初めての経験と言えば、年末年始を初めて一人ですごして、ホント鬱になる気がしました。以後、一人で年末年始を過ごすマネがなくなって、隣人の大切さを知りました。まぁそれでも、一人暮らしの自由度の高さはホント最高でしたね。ここから約4年、行徳の家にはお世話になりました。2DKというサイズで、新婚もここで過ごしたわけですけれども、まだものが少なめだったので生きやすかったですね。ほんと今なんでこんなに荷物があるんだろう。

1時間かけて、まだ 2年の途中までしか経過してねぇじゃねぇか、94/95は人生の切り替わりすぎて、いろいろ多すぎ。まだゲームの話にも一つも触れてないぞ。

ということで、1995年は新社会人になって、ついにプレイステーションを買うわけです。なぜか、リッジレーサーと鉄拳をやり尽くしたにもかかわらず、最初に買ってしまうところが最高ですね。ネジコンさえあれば、私、無免許でも車運転できるはずです。ドリフトもいけます。引越し後には、PCエンジンCore Duoなんかもかいました。ドラキュラXと同級生のためだけですね。その後スナッチャーも買うわけですが。

一人暮らしも始まったり、自由になるお金も増えたことからゲーム漬けの日々が始まります。仕事が多少忙しくとも、体力が豊富なので、ずっとゲームし続けられるんですよね。素晴らしい。もっと他のことに時間を使っていたら、こんなことにはなっていなかったとしか思えない。

1995年にプレステで買ったソフトは、たぶん、アクアノートの休日、アークザラッド、悪魔城ドラキュラXX、エースコンバット、ときめきメモリアル、フィロソマあたりかな。このあたりから購入したゲームは全部とってあるので、見ればわかるけど、みるのもだるい。アークが単調なタクティカルバトルな割には、なんか面白かったんだよね。2はちょっときつかったけど、1は楽しかった。キャラも多かったし、ゲーム自体はイージーだった。アクアノートはなんで買ってしまったんだろう。フィロソマは、シューティングがないから仕方なく買ったとかいうレベルだけど、嫌いじゃない。ときメモはハマるにはハマったんだけど、その後、嫁がもっとハマりすぎて、今でもやってるレベルなんで中毒性がヤバイ。全員クリアして満足してたら、嫁が「最高値にしてクリア」とか謎の目標つけてやりまくっててちょっと不安になる。

X68kはもうすっかり過去の遺物のようになってしまったものの、まだぎりぎり使っていたかな。パソコン通信のメインでもあったし、ThinkPadを会社で安価に購入ができたので、初めて個人で(会社経由で)ローンを組んで、初めてのThinkPad(370C)を持つことができて喜んでた記憶ある。ノートPCにするなら、ThinkPadってずっと考えていたし、IBMサイコーだぜって考えてた頃。社員向けに販売をはじめたころだったので、ある意味第一期生でもある。

そして、ThinkPad に入っていたOS/2はおもむろに消して、Windows3.1やWindows95にしてフラフラしてたのも良い思い出。CONFIG.SYSを書く程度なら、X68kやPC9801で多少はできていたものの、実際に自分の端末でやり始めると、メモリを確保するのがめっちゃツラくて、しんどくて大変だったの覚えてる。この当時のIBMでは、社内で次の3つのプロトコルを利用する必要があったのですよ。

  1. SNA (社内業務システムは、ほぼメインフレームだった時代)
  2. NetBIOS (社内のファイルサーバ)
  3. TCP/IP (Webとか諸々用)

ご存知のとおり、1995年は Internet元年(とか言うと怒る人もいるけど、まぁ世界の社会的に Internetというものがクローズアップされた年ということで) ということで、Yahoo! はもとより、いろいろな Webサービスが増え始めていた頃です。とは言え、まだ黎明期といっても過言ではない手探り状態でした。TCP/IPは必須じゃないけど、あるとNetNewsも見られるし、eメールも使えるってことで、個人で利用する人は社内でも増えていった頃でした。

この3つのプロトコル、当時はレイヤーも何もかもちがう状態で提供されていたプロトコルのおかげで、動かすようにするのが(OS/2以外では)至難の業でしたと言うか、Windows3.1では動きませんでした。この3つのうち、2つ同時に動かすことはできるのですが、3つ同時に動かそうとするとスタックが不足したり、割り込みが被ったのかデバイスドライバが停止したり、何らかの理由でうまく動きませんでした。DOS/V初めてだったのと、初めての汎用ネットワークプロトコルだったので、自分のスキルレベルが低かったということもあるでしょうが、ともかくWindwos3.1で業務を行うことが大変だったのはよく覚えています。結局OS/2では余裕だったり、Win95でも動作したので、16bit/32bitでのメモリスタッキング周りじゃねぇかなとか、勝手に考えてます。

1995年は、初めての社会人生活ということもあって、初めての出来事が多く、モチベーションも高く新しいことにチャレンジできた年だったなぁと振り返るだけでもよくわかりますね。こんなに書くことあるんだもの。

今日のおすすめ

こすぎる2年間でやめとこ思います。恐ろしいくらいのネタの量ですね、これでもかなり削ったのに。

というところで、過去を思い出すにちょーど良い商品ということでプレイステーションクラシックです。中でも紹介しているアークザラッド1&2や、アーマードコアといった男子たるもの通らなければならないロボット物、X68k人生を過ごした人ならわかるジャンピングフラッシュに、バイオや闘神伝、そしてFF7(International)にメタルギア、ワイルドアームズまで入ってしまっているヤバイ作品集です。これはゲーム機と言うよりも、作品集といって過言ではないでしょう。数的に大量のゲームが発売されたプレイステーションの中から、これらの作品群を選抜するのは苦慮しかないです。わたしだったら精神病んでます。初期の大傑作選です。ゲーム機ではありません、作品集です。

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