[GW4日目] #平成を振り返る その1 [ #平成最後の日 ]

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タイトルをハッシュタグにするとかいう、流行にのっかってしまえ的なところ、そんなに嫌いじゃありません、しょっさんですこんにちわ。

最近、これまで以上に固有名詞を思い出すこともできなければ、キーボードの打ちまちがいも半端なく増えてしまったので、もう仕事に支障が出るほどには老人な気がしてなりません。それ以上にポンコツな変換をする Google IMEですが、もう怒りを覚えることもないくらいの菩薩状態で生きています。

目次

#平成最後の日

タイトルまでハッシュタグにしたところで無意味なんですが、そのままです。前回は、中学2年生の冬休みが終わった頃か、終わったときか。昭和天皇が崩御され、昭和が終わり、平成が始まりました。この頃はなんも覚えていませんね。ステキなくらいほとんど何も覚えていません。嘘です。ちょっと覚えてますけど、そんなに覚えていません。このまま齢を重ねれば重ねるほど、どんどん忘れていってしまいます。やはりこの30年、振り返って記録しえおくことが重要と言えましょう。

ということで、この長くて短い30年を振り返ってやろうこんちきしょーと思います。

#平成を振り返る

個人的年表は作ってあるんですが、個人情報過ぎてあれなので、それを振り返りながらしょっさんを思い返してみます。

平成元年

中学2年生から3年生へというところです。世間では、消費税が初めて導入されたり、宮崎勤が逮捕されたり、ベルリンの壁がなくなって、天安門事件がありました。平成になっただけでも大事件なのに、随分と激動の一年ですね。

私と言えば、PC-8801mkIISR以降を持つ中学生の友人たちに囲まれながら、MSX2を使い続けMSX2+へとアップグレードしたころですね。当時はDARIUS2大人気で「でかいキャラが動くシューティングゲーム作ろう」なんて具合にMSXでマシン語書いてました。実際、なかなかどうとなるものでもなく、それでもドッターとしてのちからは随分とつけていった頃でしょうか。

中学3年生と言うのに、まともな受験勉強もせず、むしろ中学3年間のうち、一番悪いことしかしていなかったのがこの年でしょう。公で言えることと言えば、毎日麻雀ばっかりやっていたということくらいでしょうか。うちでも友人の家でも、夜に親がいなくなれば、徹夜麻雀の日々でした。まず、親が家からいなくなるような中学生活という時点で、ふつーにヤバイんじゃないでしょうか。親になった今では、そう感じてしまうんですが、まー夜に親がいないなんてよくあるイベントでしたね、私の周りでは。理由は考えたら、簡単なことです。

嘘ついて早引きしてゲーセンでゲームやっていたのもこの頃です。そんなときに限って、家に誰もいないはずの我が家に婆様が来ていて、先生からの電話を聞いていてめっちゃ怒られたのも良い思い出です。当時のアーケードと言えば「ファイナルファイト」でした。ストリートファイターの後継を期待されていたときに出た、このまったく違うゲームに、ドン引きしたの覚えてます。先ほど名前を上げたように、私はDARIUS2ばっかりやっていたんですけどね。ベーマガのチャレハイのスコアは余裕で超えていたので、当時のヒノゲーがチャレハイでていなことだけを、とにかく悔やんでいました。

パソコンゲーム市場的には Ys3(Wonderers from Ys) が発売され「横スクロールアクションかよ」「多重スクロールじゃん!!!」「遅ぇ!!!!」という時代を生き抜いてきました。その後、X680x0版が発売されて、ガルバランが死ぬほど強くなっていたことにドン引きしました。ドン引きばっかりじゃねぇか。

そういえば、この年の最後のXmasパーティーで女子含めて羽目外しすぎたところを、うちの母君に見つかってしまい追い出されたのも良い思い出です。追い出されたのは良いけど、追い出されたまま次の日の終業式でるの大変でした。いつも悪い事したあとは、同級生の小倉くん(こんな呼び方したことないので気持ち悪い)の家で反省会してたのも懐かしいですね。そういえば、フジテレビの24時間テレビが始まったころで、そのときも小倉くん(やっぱり呼称が気持ち悪い)の家でみんなで24時間テレビを見ながら馬鹿騒ぎをしていたことを覚えてます。この当時から27時間テレビだったっけ?

平成2年

このペースで書き進めていても、平成最後の日が終わっても振り返れない気がしてきました。

ここでついにバブル崩壊と呼ばれる事象が日本の社会の終わりを宣言した年です。花博で、花が大量盗難された年でもあります。物品だと盗むという意識が働くようですが、「花」のようにそこら中にありそうなものを集めたように見えるだけの展示会では、それは無断で持っていっても良いと思えるような集団心理が働くようです。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を地で行く日本文化の民度がわかる事例です。

さて、この年は個人的に大激動の年です。なんとX68000 EXPERT を手に入れるのです。1990年当時、モニタと本体のセットでたぶん57万円くらいです。オプションなしで、この価格。暴挙ですね。おそろしいです。なお、我が家は貧乏のどん底におったので、もちろんこれはお金を持っている人が私に、卒業祝い兼入学祝いとして買い与えてくれたのでした。( ※ わいのお祖母様です )

MSX2+ からX68000へのちょー大幅なアップグレードによって、我が生活はX68000を中心に回り始めたと言っても過言ではありません。ほんとすごい。この時代とは言え、卒業までこのマシンを改造しながら使い続けたのも偉いと思うのです。これによって、ゲーセンへ行く頻度も減りました。当時はアフターバーナー(for X68k)が前の年に出た後で、家で、マウスでアフターバーナーができると泣きながらマウスを壊したものです。また、この頃はデータの暗号化・圧縮という技術が希薄で、ディスクダンプすれば、ゲームのデータが吸い出しまくれたおかげで、ゲームのデータを使いまわしたパクリゲームやキャラのデータが出回りやすかったですね。個人的には良い時代でした。もちろん、NAMCOマニアとしては源平討魔伝を捨てることはできません。このためにX68000を買ったと言っても過言ではありません。当時、ゲーセン以外で、まともに移植された源平討魔伝をプレイするには、X68000電波移植版を購入するほかありませんでした。たまに電波にはやられますが、この頃のX68000移植版の出来は、素晴らしかったと記憶しています。おかげさまで、全国踏破とか、最速クリアとか何でもできるようになりました。ありがとう電波新聞社!!

この頃、ゲーセンでよくやっていたのは「ナイトストライカー」あたりでしょうか。DARIUS2と抱合せに近いタイミングで発売されたものの、体感機しかなく、しかもその体感機が壊れやすく出荷数も少なくて、1990年になってからやっといじれたという感じです。それまでは、DARIUS2とセットで売られていたTAITOのサントラでしか知りませんでした。なお、某ヒノゲーには ALL PACIFIST してしまう高専の先輩がおりましてですね、ホントやばかったです。他には、ボナンザブラザーズ、マーベルランド、ムーンウォーカーあたりが当たり年か。な。DECOがトリオ・ザ・パンチやエドワード・ランディ出してた年ですぜ。キャメルトライみたいに新しい挑戦をするゲームが有るかと思いきや、スノーブラザーズみたいなパクリゲームも平気で出せる良い時代です。クイズゲームが増えてきていて、なんかの走りだったんですかね。翌年になると、カルトQなんかもありましたし。

この年は、X68000ゲームとしてはギャラが’88やエメラルドドラゴン、グラナダ、シムシティにサンダーブレード、ポピュラスにラグーンと人生の時間をなくすようなゲームが大量に発売されて、私の成績を落としたとも言えます。たぶん、まだエロゲには興味がシフトしてない頃ですが、闘神都市やキャンバニ、ドラゴンナイトと主要なものはすでに提供されてた頃です。

生まれて初めて継続的なバイトを始めたのもこの年です。同級生の早川くん(この呼称も気持ち悪い)が働いていて、紹介してくれるという理由だけでドムドムバーガーで働き始めます。これから4年間、陽キャとして活動することになったベースはここにあったと言っても過言ではありません。

平成3年

振り返ることをすでに公開していますが、まだ1/10も終わってません。死にそうです。

この年は現実味のない湾岸戦争で、軍オタが狂喜乱舞したり、雲仙・普賢岳で火砕流が発生して罪のない多くの人々が亡くなられた年です(今でも問題が山積のあれです)。

X68000では、電波新聞社が信じられないような画像に書き直したイースが発売されると、タイムアタックアクションマニアの心をギュッと掴んで離さないG2(ジェノサイド2)が発売されます。直前にロードショーされたT2(ターミネーター2)に思い切り感化されてしまった内容とか、マジでかっこよすぎてサイコーです。今でも、これを超えるロックなBGMをもったゲームはないでしょう。ちょーロックです。めっちゃかっこよすぎて、ゲームに身が入らない。嘘つきました、一曲だけなら、めっちゃヤバイのあったので、それはまた後ほど。他には、生中継68をコピーして全シーズンクリアして優勝した(名誉のために言うけど、わいではない)のに、エンディングにならないという鬼の所業のようなコピープロテクトに感動したこととか、ZOOMがファランクスだして「G2までの勢いはどうした」みたいに心配したり、マーブルマッドネスやメルヘンメイズで癒やされたり、哭きの竜がゲームに鳴って泣いたりした年です。X68000のゲーム思い返すだけでもblog100本くらいかけそうで、もうしんどいです。

アーケードはだいぶ興味が落ちてきたと言いつつも、メタルブラックはワンコインクリアが余裕で「どうしたTAITO」みたいな気分になったり、バーニングフォース出した会社がソルバルウだして、会社の本気度がよく見えなかったり、ローリングサンダーの2が出るとは思わなかったり、出たな!!ツインビーみたいに、シューティングでも萌えを売り始めた頃です。感慨深い。

コンピュータ関係の話を少ししておくと、この頃には CASL/X-BASIC/Cはふつーに書ける頃で、Pascalを学校で習ったりしてた頃ですかね。68000アセンブラにそろそろ手を出し始めようかという瀬戸際です。そして、今の妻と付き合い始めたのがこの年だという。付き合い長いっすね。

平成4年

どうも社会的ニュースとしては「佐川献金」くらいしかなかった模様です。どんな事件かも知りません。そのくらいバイトと彼女とお勉強に明け暮れていた頃です。ゲームした記憶があんまりない気もしますが、思い返すとやっぱりゲームばっかりやっているようです。

X68000では、ズームがオーバーテイクを出してきたことによって、その瞑想感が確定的なものになったり、ついにグラディウスIIが発売されたり、ストライダー飛竜萌えたり、なぜかチェイスH.Q.がでてきて涙したり、ライフ&デスのような倒錯しすぎたゲームが発売されるその懐具合に感無量になったり。ゲームよりもプログラム書いてる時間が長くなった頃じゃないかと思いますねー。ゲーセンにはほんとに行かない頃で、アウトランナーズと餓狼伝説2あたりしか覚えがないです。ゲームやってなかったけど、F/Aは音楽がやりすぎてたんで覚えています。

高専だったので3年生では特にイベントも多くなくて、毎日、彼女と遊んでからのバイトという日常の繰り返しでした。おかげさまで覚えていることが少ないのも衝撃的です。このころから、学校のワークステーション(Sun)が使えるようになって、本物のunixを無尽蔵に使えるようになったことでしょうか。/home がリモートマウントされていて、どこでも自分のコードが打てたのは、真面目に感動した記憶あります。あと、そんなに抜群に性能が良かったわけじゃありませんが、画面も大きめで、X-Windowがまともに動いて、コンパイルがめっちゃ速くて泣いたことくらい。ほかに覚えているのは、このときから成績が良かったこととかか。

平成5年

皇太子のご成婚がこの頃なんですね、もっと昔かと思ってました。それから、北海道南西沖地震です。

今、別のモニタで当時を思い起こそうと、源平討魔伝のクリア動画見てたんですが、NAMCOは正式なラスボスへ行くために、面倒なアイテムを沢山準備させておいて、最後のボスをめっちゃ弱くしてしまうという、なんか切ない物語多い気がしてきた。頼朝弱すぎてかわいそう。

閑話休題。

この年の新たな挑戦は「パソコン通信」でした。あんまり早くないデビューです。X68000で、ようやくフリーソフトウェア集みたいなムックが発売されて、そこには当然ながら通信用のソフトウェアがいくつか掲載されていました。当時はTMNとMuTERMとかですね。機能性で当時はTMN使ってましたけれども、後期はMODEM速度が早くなっていったこととM-LINKが使えるということで、MuTERMの利用度が上がっていった記憶があります。これによって、自分でも作ったものを公開できるという興奮と承認欲求を満たす技を覚えてしまい、BBSで痛いキャラやってたと思います。嗚呼恥ずかしい。この頃があったおかげで、今の私があったと言っても過言ではないでしょう。そんな偉大なきっかけとなるパソコン通信を始めたのが高専4年生ですね。18〜19歳あたりです。もう、この年の後半にはオフ会とかにもふつーに出ていて気がします。ほとんどがX68k関係のサイトばっかりでしたが、某がらくた工房に入ったのも、この年かなー。この年じゃないと計算が合わないなー。

ゲーセンには随分と行かなくもなる頃ですが、革命が起きます。リッジレーサーです。レーシングゲームとしては、前年にバーチャレーシングが出ていますし、ポリゴン搭載のレーシングゲームはNAMCOがいち早く(1989年)に、SYSTEM21でウィニングランを出しているわけです。そのNAMCOがまぁやってくれたのが、このリッジレーサーなわけです。今でこそオーソドックスなレーシングゲームですけど、当時は画期的だったわけですよ。しかも、曲が頭おかしい。ROTTERDAM NATIONとかよくもまぁ、こんなの入れてみようかと思ったわけですよ。さすが細江慎治としか言いようがない。逆再生ネタとかも流行ったね。

X680x0はどうかと言うと、ついに出てしまうんです。悪魔城ドラキュラがついに。ステージ型悪魔城ドラキュラシリーズの中での最高峰としかいいようがなく、最初にして最高と謳われたファミコン版を踏襲して、X680x0のハードウェアを駆使しすぎた最高の演出と難易度で完成させた逸品。これが出てからというもの、こればっかり一体何周したことやら。最初の頃は、同級生たちとうちに泊まっては、このドラキュラシリーズをクリアするために夜通しプレイしたものです。気がついたら、一人で六舟できるようになっていたときにはびっくりだけれども、これは慣れたら、ホントどうにかなるゲームとして色んな意味でよかった。これを超えるステージクリア型ドラキュラはいまだに出てないと言える。というか、もうこのタイプは売れないのだろうね。それはそれで残念だけれども。

そして、このドラキュラ。音楽が狂ったように最高です。しかも、恐ろしいことに内蔵音源版が最高の出来。KONAMIスタイルだと、音色もバリバリ作ってしまうので、下手に固定楽器の音色を使わざるを得ないMIDI機器よりかは、音色まで狂ったように作り上げてしまった内蔵音源のほうが出来がハンパない。そして、G2をも超えただろうかというのが、”Thrashard In The Cave”。ドラキュラと全く関係ないだろうというギターとベース。ドラムのことを考えるとMT-32/SC-55のがかっこいいかもしれない。けど、内蔵FM音源もほんと素晴らしい。よく作った。偉い。

内蔵音源版

MT-32版

SC-55版

ドラキュラの所為で、他になにもないみたいな感じになりにけりだけれども、チェルノブやぶたさんも出たし、ついに「同級生」のX68000版も出て、わいのゲーム人生が変わりゆくのがこの年。ロボット・コンストラクションも発売されて、自動化職人が多く生み出された年でもあるね。

というところで、振り返りその1はこれくらいにしようと思う。というか、こんなこと毎日続けていたら、俺のゴールデンウィーク何も終わらなさすぎる。次回以降はもう少し考える。

今日のおすすめ

悪魔城ドラキュラとしての完成版だった、X680x0版の悪魔城ドラキュラを移植して販売しただけなのに、最低の出来になった「悪魔城年代記」。ゲームの悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ Original Soundtrack CDに関しては「X680x0版のサントラが出た」という嬉し懐かしい気分に浸れるのでオススメです。しかも、これ、アレンジ/内蔵音源/MT-32/SC-55と全音源バージョンでいけるという最高のチョイス。好きな音源を永遠に繰り返せる。この流れでは、もうこれをおすすめするしかない、そんな平成最後の日。

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