[勤続20年] 仕事を振り返って、やっておいて良かった3つのこと [不惑]

気がついたら、2015年4月1日で勤続20周年を迎えるような、お年寄りになっていました(´・ω・`)

4月1日に更新して上げようとしていたのに、1週間近くたっていて自分の行動に辟易としています(‘A`)


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タイトルとしては「やっといて良かった」なんて書いていますが、「もっとやっておけば良かった」的なものも含んだり含んでいなかったりします。まぁでも、おおきくは、この3つが今の自分を作っているとしてまちがいないでしょう。

それと、長く書きすぎたので、読み返してないです。

20年を振り返る

外人なら、ここで「この3つだ!!」とまず先に書き出すところからはじめることが、一般的当たり前の手法ですが、わたしゃ日本人なのでもったいぶって後に書きます。余計なことだと思う人は、目次から好きなとこ見ればいいじゃん!! 好きにするがいいよ!!と涙目で書き始めるとします。

突然、話がそれるんですけれども、5年くらい会社内の勉強会で一緒にやっている人がいるんです。名古屋にいるんですが、年に一度は飲み会の時に出張合わせてくるような、そりゃできた人です。ふと、突然、その方に本社で会ったんですね、同じフロアで。ナニゴトかと思いました。死んで枕元にたたれる気分はきっとあんな感じです。話を聞いてみると「東京に転勤になって」と言うことでした。これで、毎月顔も会わすでしょうし、年に二度の飲み会でもお会いすることになるでしょう。最後に「facebook と oshiire*BLOG のファンです」って言われて恥ずかしいので、全部封鎖してやろうかと、フツーの人だと思うんでしょうが、ドMでホント良かった。今日は、そのかたにむけて、思いつくだけの長文をプレゼントしようと思います。

なお、男子のおっさんです。あたいがそっち系なわけでもないです。

ホントに話がそれたところで、20年前がどんな頃だったか、思い出してみますね。

激動過ぎた1995年

1995年の記憶がある人は、1999年にむけてのラストソングかと思ったに違いありません。忘れもしない大きなできごとは3つ。

  • 阪神淡路大震災
  • 地下鉄サリン事件
  • Windows95発売

最後にちゃんとオチを付けてきたみたいな 3つの出来事ですが、ホント衝撃的すぎたんです。ホントアレですよ、マジでヤバイです。

阪神淡路大震災

卒業研究も追い込みだった年初、その日も遅い時間に寝たわけですが、なぜか 5:46am ((その時に見たデジタル時計は時間がずれていて 5:47amを表示してました)) に目が覚めたんですね。普段は 8:20am に目が覚めて、8:40の始業ギリギリに学校にいるような私がです。今考えると、俺すごいな。さて、なんで目が覚めたのかも分からずに、二度寝です。その後起きたらビックリですよ、大阪のほうで大きな地震が起きたと朝からニュースで騒ぎ立てているんです。倒れる高速道路、やまない火災、崩れ落ちている家、ビル、過去にも大地震は生きているうちに発生していますが、都心部で発生したものははじめてでしたし、小学生の頃に見た御巣鷹山の現場とはまたちがう狂気でした。

地下鉄サリン事件

卒業式は終わっていたのかどうか、そこまでは覚えていませんが、もう休みに入っていて、その日は友人たちが朝からうちに集まって遊びましょうなんて日だったんです。なぜか、うちの母親も休みにしていて、朝からぐったりぼーっとしていたんですが、だーれも到着しない。その頃は携帯電話なんてものを、まだ誰も持っていない時期だったので、みんなから連絡が来ないと何が起きているのか、もうさっぱりなわけです。そうこうしているうちに、一人の友人から「電車が動いていない、車で行くわ」という連絡をもらうわけです。埼玉から東京に出られないってどういうこっちゃと思い、テレビを観てみると、そこはもう意味不明な出来事ばかりでした。霞ヶ関中心に、なにかが巻かれて死者がでている、怪我人多数という報道、ガスマスクを付けた警察なのか機動隊なのか自衛隊なのか、もう記憶に定かではないですが、インコだかを持って中に入っていくのをだけは覚えてます。結局、我が家に到着できたのは5人中1人だけで、その車できた友人も、普段は20分程度で来られるのに、2時間はかかりました。「何か買っていこうか」という言葉に対して、うちの母親が「吉野家」と言って、到着したのは冷え切っていた並盛りでした。その頃、我が家の近くには牛丼屋チェーン店が一軒もなくて、彼が来るときにはよくお願いしていたんですね。電車がダメだからって、車で移動しようとした人が多かったからでしょう、都内は移動手段がほっとんどありませんでした。

後々、会社にはいってから仲良くなった協力会社の女子の人が、通勤中に、サリンのまかれていない他の電車に乗っていたという話を聞きました。ドアが開くと同時に駅員が「降りてください、すぐ外に出てください!!」と腕を引っ張られて、すぐに外に出るよう促されたと言うことだったんですが、その時の狂気的な状況は、駅員の人たちからすぐに分かったそうです。それくらい、駅員の人たちが必死に対応されていたということでしょう。私も、もう少し早い時期に入社していたら、この事件に関わっていたことになったのかな、などキモを冷やしていたものです。他にもうちの会社で被害に遭われたかたや、現場に遭遇した方は多かったのですが、話してくれる人はこの人だけだった気がします。

その後入社して後、初めての誕生日を迎えることになるのですが、その時にも衝撃的な事件があります。

「麻原彰晃タイ━━━━||Φ|(|´|Д|`|)|Φ||━━━━ホ!!」

私の入社して初めての誕生日は、麻原被告逮捕で埋め尽くされていました。その夜、嫁がまだ彼女だった頃、なぜか夕飯を私が奢るという謎な一日でしたが、そうです、私の誕生日は 5月16日です。もうすぐですからね、よろしくお願いいたしますネ。

誕生日まで、もう少し洗練しておきます => 「Amazon.co.jp: しょっさんのほしいもの

Windows95発売

そして、Windows95 が発売されたんですよ。


Windows95

OS買うのに人が並ぶってこと自体が、まず意味不明でした。OS/2 や Windows3.1 一派で、Windows95 にはなかなか手を出さなかったんですけれども、これは良かった。何が良かったって、ネットワークソケット部分が改善されて、SNA、NetBIOS、TCP/IP と仕事で使っている全てのプロトコルが、OS/2 以外ではじめて全部使えたんです!!ババン 見た目も OS/2より申し訳ないけど、洗練されていたのと、アプリの数も圧倒的 Windows95 有利になりましたね。そして、ここから 「Internet時代」が到来するわけです。そこかしこで、mail を投げては喜び、ホームページ ((語弊あるけど、このまま記載)) を解説して喜び、カウンターが廻れば知り合いに「うちのサイト見てくれた?!」と聞く始末。あの頃は、ネットワークで人が繋がっていると言うだけで、喜び楽しんだ時代です。まぁ、パソコン通信組だったので、その喜びは学生時代にすぎてましたし、Webの表現力もいまいちだし、特に有用な情報もない頃ですから、そりゃまだ現役だったパソコン通信のBBSのが情報の集まり具合は良かったですよね。だがしかし、Windows95 によって Internet接続への敷居がぐんと下がり、Internet人口が爆発的に増え、それによって多くの恩恵を受けるようになったわけです。もう、今時 OSが発売される、と言うくらいで深夜の 12時に人が集まるようなことはないでしょうが、そんな狂気的に人が熱狂するような何かって、何かあるんでしょうかねっておもったら、いつも Apple Storeの前に人並んでたわ。Microsoft → Apple シフトしたんですね。あの頃知っていると驚き桃の木山椒の木です。

エンジニア生活

20年前振り返っただけでしかないのに、もう読む気が失せる程度の量は書いてしまった気がするのですが、まだいきます。ここまで読んでくれた人ありがとうございます。先はまだ長いでしょう。私の気力がある限り。

CE時代

私は元々「Customer Engineer」= CE という職業で入社しました。内定したのは、CEだけがいる会社だったはずなのに、なぜか分社化していた会社が入社したときには1つに戻っていて「会社ちがうじゃねぇか」みたいになりましたけれども、まぁそれはそれで結果的に良かったと考えてます。さて、10月までの研修を行った後、CEとして配属されたわけですけれども、しばらくは社内のサーバの調整や設置、Windows95がサポートされていないデスクトップを提供されて、それにインストール城など言われててんやわんややってました。最終的に、SoundBlasterボードと、それにくっついているCD-ROMドライブ全てを認識させるに至りましたが、この頃はまだ Plug and Play が Plug and Pray の頃で、I/Oポート割当など、適当すぎるし、自動が主導だったりしてよく死に絶えてました。動いたからといって、音を鳴らすわけでもなかったので、ホントにどうでもよいことに時間を使いましたが、この頃の経験はイロイロ役に立ったと思いたいです。

新入社員ということもあってか、ちまちまとあまり責任のない仕事や、ヘルプがメインで、仕事するというよりも秘書のお姉さんの相手をして遊び回っていることが多かったような記憶があります。毎晩飲んでるし、四半期毎には旅行に行ったり、下手に金が自分の好きに使えるようになって、これまでの貧乏じみた生活からの脱却をアホみたいに楽しんでました。お金の使い方を一切学ばずに社会人になってしまったのは、ホントに失敗でした。ホント。でも、社会に出てからも、こうやって学生の時のように遊べるんだって分かったことは、発見でした。社会人になったら、もう二度と遊べないんだって感じていて、悲観的に就職したんですけど、そんなことなかった。むしろ社会人になってからのほうが楽しい。お金があって、自分で責任を取って行動できるからだろうと考えてますけど、活動するための資金があって、自分でその行動を考えて選択できるってのは、とても楽しいことだと学びましたね、この頃。たくさん仕事もしたけど、その分遊んで。酒を飲みすぎて羽目が外れるのは、未だに後悔の元なので、こればっかりは気をつけたいです。

その後、電気を売るほど余っている企業さんの担当になりました。CEとは言っても、時代が変わりつつある頃で、保守よりは新しいサービスをやりましょう、と言っていた頃です。だから、CEなのにほとんど修理・交換をする事はなく、Notesのアプリを作ったり、RASサービスのインフラを準備したり、PCの設置・展開をどうやって効率化するかと、最終的に 2万台のPC展開までやりましたね。この大展開プロジェクトの後は、20代前半なのに一人担当になって、一人で売るわ、作るわ、5000KVAの UPSを一人でラッキングするわ、自分の失敗は自分で尻ぬぐいしなきゃいけなくて、一人で新潟に行ったときの請求を自腹でやったり(今だったらゼッタイやらないけど)と、責任を持ってプロジェクトを実行する基盤ができた頃です。CEなのに、なんかおかしい。

この担当をし始めた頃に、Lotus Notes を導入できる技術員が少なかったことから、某銀行の海外展開のパイロットとして、ニューヨークへ行ったことがあります。TOEIC 300点しかないのに。んで、部長や秘書がうまいことやってくれて、英語の話せるPMの人と一緒にいくことになりまして。初めての海外、しかもお仕事で、それもニューヨーク。お客さまも気をつかってくれて、到着したらすぐに祝日で、マンハッタンをバスで観光したりしました。そんな楽しいことも最初だけで、その後は毎日深夜まで作業していて、17時にもなれば、現地の米国人はみんな帰ってるのに、日本人だけ残っている姿は異様な光景だったことは、今でも鮮明に覚えてます。そんな中、私のたどたどしい英語で、中国系、アフリカ系、北欧系の人種のるつぼに対して説明をするようにしむけたPM、というかうちの会社の文化がおそろしいです。まぁ、ムチャぶりに対応してこそ、みたいな人生を送っているので、やってやるぜとやってましたけれども、ホント楽しかったですね。なお、その時は、NetWareサーバ上のイメージからサーバへNotesサーバを導入する手順を教えてました。みんなちゃんとメモしてたの嬉しかったです。それにしても、今思えば、TOEIC600点こえてる今よりも、あの頃のが英会話できてた気がします。不思議なもんやね。

このCE時代に結婚したり、子どもが生まれたり、社会人として一番おこられたり、毎月出張しているような、そんな時期でした。よくよく考えたら、一番激動の時期を 20代前半のうちに過ごせたのは、結果的に良かったことじゃないかと、振り返るとそんな風に感じます。ただね、9時に出勤して 18:00までは必死に仕事した後、20-23時くらいまでは会社でみんなで必死に遊んで、その後から夕食という名の安楽亭での飲み会を繰り返した結果、15kg 太ったという悪い習慣も持ってしまい、新婚なんだから帰れよって時も、今思えばあったかのように思いますね(‘A`)いや、ホント嫁すまん。

最初に会社に入って、ちゃんとお客さまと向き合って、ホンキで仕事した頃というのは、とてもよく覚えていて。未だに新橋へ行くと恐怖で足がすくむレベルなんですが、この頃お世話になった営業、それから部長・課長の仕事の教えは未だに生きのこってます。仕事をはじめて最初の頃の教えって、やっぱり忘れられないんだね。仕事を始めた頃に、誰と一緒に仕事したかで、その後の社会人生が変わってくると思います。今でも、その頃の教えとして必ず守っているものは次の3つ。

  • 謝罪より感謝。障害の報告書でも、まず感謝を述べられる人になること。
  • メールの文頭に、会社名・部署名・宛先氏名を正しく記名すること。
  • 飲み会には遅れずに参加するコト。

ITスペシャリスト時代

担当していたお客さまの仕事もほにゃららしてきて、部署も変わったりイロイロあったりで、担当するお客さまが変わりました。この部署異動で、完全に CEではなくなり、当時できたばかりのITスペシャリストになりました。プロフェッションじゃなくて、ロールが変わっただけというか、社内のスキル標準も変化の時期に合った頃で、自分のスキルプロフェッションは一体何だろうね、いや、まぁ目の前にある仕事をがんばりましょう、という感じでした。

新しく割り当てられたのは「運用業務」です。しかも一人。これまで、お客さま営業部の部屋にひっそりと置かれていたサーバを、データセンターへ移設して、そこで新たに運用を開始するため、その運用担当者として割り当てられました。その時のサーバ構成で私がいじれるソフトウェアは「ありませんでした」。その時の担当者の人も気がついたら、ここを見てしまうだろうと思うけれども、笑って済ましてくれるような心の広いお客さまだろうと勝手に想定して、いまだから言いますが、AIXのコマンドは打ったことあるけれども、WASもDB2もADSMも、なんも知らん子でした。というか、サーバを運用するってこと自体が意味不明でした。ホント、さて困った、みたいな状態です。しかもね、監視のシステムが手組みだったんですよ、監視サーバだけ Linux で、ポップアップを出す仕組みだけがGNOMEでコーディングされてました。嫌がらせかと思いましたね。いや、Linux は弊社がサポートを表明した頃には、自分の家でサーバを立ててましたから、Linux はいいよ、まぁいい。しかし、手組みで納めたものを運用させるのかってのは、今じゃ考えられませんね。マニュアルも設計書もなくてね。まぁ、古き良き時代ってコトで。

ここからは怒濤でした。運用リーダーとして、それがメインではあったのですが、お客さまはちょうどこの業務拡大を狙っていた頃なので、毎年、新しく構築の案件があります。それを作るのは誰か、それは私です( ´ー`)y-~~

もちろん、構築をするために要因は増えますが、運用責任者は私だし、構築も運用もやらないといけないわ、しかも FireWall-1@AIX なんて見たことも触ったこともなくて、ネットワーク関係はこの頃に異常に学ぶことになりました。そう言えば、結局、Network ITスペシャリストになろうなんて、無謀にも意識して、結局Network Specialist になったんですね。どうも、自分の得意じゃないものを会社の昇進試験で選択しようとするのが、私のサガのようです。ほんで、毎度毎度、構築のリーダー兼運用リーダーなんて面白いことを継続して続けていくわけです。

この頃は、「責任感を持って仕事をする = 最終的に自分でなんとかする」と考えていて、どんな障害が発生しても、どんな要求が発生しても、特に誰かに頼ることなく自分でなんとかしてました。自分でなんとかしなきゃいけない、と言うその状態が、自分のスキルを一番押し上げることに繋がりました。Linux の Kernel codeも読んでたし、debugも余裕だった忌まわしき時期です。でも、業務的にはこれは良くないんですよね、属人的なのも勿論ですけれども、私が解決できないなにかが起きたら、全てが停止すると言うことでしたから。

そこで、廻りもイロイロ気をつかってくれたり、私からもお願いをして、運用チームにProject Managerがつくようになりました。久しぶりに、誰かの下でプロジェクトを任されることになったわけですが、ホントやりにくい。好きにできていたこともできないし、自分でとれる責任も、会社にとってどうかと判断されたり、当初はやりにくさだけしか感じなかった悪い時期があります。ホントに幸運ですけれども、大失敗をして会社やお客さまに土下座するような迷惑を掛けたことは無かったんですね。でも、それの所為で、なかなかPMが会社のための行動を理解することができなくて、うまくいっているんだからいいじゃないって、当初は感じていたわけです。でも、PMやお客さまと話を続けることで、後になって何かがあってからでは、どうにもならない問題があることも理解しました。自分が知らない・想定できないリスクというものがあって、そういったナレッジが会社にはあって、プロジェクトを実行するためには、事前にそういった課題・リスクを明確にしていく必要があることを、この頃にいい齢になってから知ったわけです。つか、会社の方針には向かって仕事してたので、会社のナレッジなんかぜんぜん知らなかったんですね。個人業者状態だったんです。会社にナレッジのない仕事ばっかりしていたので、会社への信頼感がなかったのですよ。この頃に、何かを踏み外さなくてホント良かったです。

ITアーキテクト時代

だんだんと、運用メンバーではなくなり、提案を主に担当するようになっていきます。齢は三十路。今思い返しても、20代のコロは、ホントに濃い時代だったな、なんて感じます。何も知らない頃なので、何か新しいことを知ることも多かったと思いますし、若いなりに活動時間も多かっただろうし、教えてもらうことが多かったからでしょうか。10代も小学校高学年、中学生、高専生を考えると、もっと濃かったと思います。そもそも、昔を振り返ると、そういうものかもしれません。

さて、運用メインから構築メイン、そして謎と呼ばれるプリセールスへとロールがどんどんと変わっていきました。この辺りから、設計書を書くよりもpptの提案書を、そして数字を並べてコストやライセンスの見積をする事が増えていきました。提案書をかく段階だと、実際に作業するよりももっと範囲の広いことを知らなければやっていけませんし、お金のセンスも必要になってきます。要求1つとっても、お客さまによって、その希望する高さが異なってくるわけです。その品質要求のレベルによって、作業工数にも、成果物(作成物)の物量にもはねてくるわけです。この辺りは、実際にお客さまともやりとりを続けて訓練していった結果ですが、私の場合、こうやって現場で徳と経験を積むことが多いなーと考えていました。逆に言うと、会社の研修などを信用していなかった時期でもあります。

このように、目の前のサーバから、人を相手にするような仕事に変わってくると、今まで持っていたスキルだけでは足りず、専門的なスキルよりも、広くて浅いスキルも必要になってきました。この頃になって「アーキテクト」なる専門職があることをしり、自分が望んで進んでいく方向はこっちじゃないのかな、なんて考え出したわけです。廻りからは「ゼッタイにスペシャリストだろ」と言われ続けましたが、もっと幅の広いことをやってみたくなって、アーキテクトへの道を進み始めました。結果的に、自分の趣味・嗜好的にはアーキテクト感のあるスペシャリストの位置づけが出世街道ど真ん中であった気はしますが、コンサル気分をもったアーキテクトという今の位置づけが、個人的には好きでいます。

弊社では、新しいプロフェッション ((専門職の分野とでも言うのだろうか…)) になるとき、上に上がるときにはパッケージを作って検査され、そのレベルに妥当かどうかの審査がなされます。アーキテクトへの転換はまま簡単にいきましたが、ランクを上げるには大分時間がかかりました。アーキテクトは、物事の定理や定義がしっかりしていることを重要性の1つに掲げています。全世界で同じ言語 ((UMLや書式的なもの)) で会話できるよう、設計物をどのように作るかまで細かく定義しています。お客さまによってカスタマイズはするものの、なぜそのようなカスタマイズをしたか、その表記技法は何であるか、凡例をもってきちんと定義する必要があります。よくよく考えたら当たり前のことです。しかし、もともと、会社の研修を信用せずに、我流で10年ほど仕事をしてきましたから、この考えを支持することには相当の時間がかかりました。

そしてしばらくして、段々とアーキテクトの考え方が分かってきた頃、コンサルタントの職種と一緒に仕事をする立場になったわけです。コンサルのアウトプットは、その後の提案活動へのインプットになるコトが多いですし、位置づけとしても、コンサル→アーキテクト→スペシャリストという段階を経てプロジェクトが進んでいくことから、アーキテクトに必要なインプットはコンサルがどのように準備するかを学ぶ機会を得たわけです。今までは、インプットのない状態で、スペシャリストへどのようなアウトプットを渡すかという側面でしかものを考えることができなかったのですが、コンサルタントのプロセスを理解することで、アーキテクトが本当に望まれていることは何か、と言うことがハッキリと自分の中で腑に落ちることができました。

後輩や、若手のエンジニアにはよく言うのですが、広い視野でものを見ようと伝えています。これは、自分自身を理解することを意味していて、1から10までを理解して、自分の求められている機能や役割を正しく見つめることができるだろうと考えています。全てを理解することは非常に困難ですから、1から10と言わずとも、今自分のいる場所から前後を見られるよう、そんなようなエンジニアを目指してもらいたいと願っていますし、自分もそうありたいと考えています。

こんな感じで、アーキテクト時代は技術的嗜好というよりも、精神論やコミュニケーション論、物事の考え方を学んで過ごしていました。これまではずっと、黒い画面にキーを打鍵してすごしていたのに、見ているものが人間になり、お金になり、中長期的に物事を考え、それが論理的に正しいのかどうかを証明することに重点を置き始めたのです。人はこうやって転換点を持って、根本から生活スタイルが変わるもんなんだなーと今になって感じる次第です。気がついたらですね、技術的な研修・講座にはもう10年以上出ていませんが、コミュニケーション研修や、リーダー研修といった、人材的な研修には一時期ハマっていて、そろそろ自己啓発セミナーでも始めるんじゃないかって感じでした。人を中心にして働く基盤は変わってはいませんが、あくまでも技術をベースにエンジニアリング活動をすることが主活動なので、人だけを見た仕事をする気には一切ならなかったんですね。技術とコミュニケーションの両立を、こうやって進めていくことが、これからの自分の仕事としています。

おめでとうございます、20年の振り返りはここまでです。人がだんだんと自己啓発によって、性格が変わっていく様が分かることと思います。長い目で見ると、人はこうやって変わっていくんですね、いろいろと気をつけてください。

やっておいた良かった3つのこと

さて、本題です。本題に入るまでにどれだけの苦労を重ねたのだろうか覚えていませんが、やっと本題です。なお、本題のほうがさらっと書いて、さらっと終わるので、ここまでのアレはなんだと言われるかも知れませんが、あたしが疲れたんで致し方ないです。分かったことは、こういったことはちまちま書いて、後でまとめるのがいいと思います。うん。すまん。

苦労

「苦労は買ってでもしろ」

という老害の大好きな言葉があります。老害の私からも、この言葉を送ります。若者たちよ、これからは苦労をして財を成しなさい。

苦労をすることを厭わないことが良いという意味ではありません。ただ、なんの苦労もせずに手に入れたものはバブルと同じで後には残りません。苦労して手に入れたものほど価値がある、なんてそんな精神論を語るつもりもありません。

苦労とは、課題そのものなんです。苦労していないと言うことは、課題や問題にぶち当たっていないか、その課題を感じていないかのどちらかで、現在の自分に十分に満足されていることと思います。おめでとうございます、満足されている方は、そのまま甘んじてのうのうと暮らしてください。しかし、課題を抱えている方、これもおめでとうございます、そこには課題が山積みになっているわけです。課題は財宝の山です。

人は苦労をしなければならないとは考えていません。あっしは「楽をするためにがんばる」ことを心情としていますので、苦労などなくなってしまえばいいのに、と普段から考えています。だから、楽をするための努力は厭わないのです。とすると、この苦労はなにかと言うと「楽をするために排除すべきもの」なわけです。そして、その苦労は他の人も感じていることが多いと思われます。ということは、その苦労を楽にするための改善をすることによって、他にも助かる人たちが出てきます。世の中のお便利グッズから、体系だったプロセスにアウトプット、自動化などのシステムは「苦労を楽にするための変換装置」です。使わない手はないので、さっさと使いましょう。そして、今苦労しているその作業は、どうやったら楽にすることができるのか、それを一所懸命に考えましょう。だから、その苦労を感じ、課題・問題を理解して、改善活動をする、ことは人が成長するに必要十分なことだと、私は考えています。

よって、苦労しろ、そして改善しろと言いたい。

1つ、私ははやく年を取りたいなーなんて考えてるときがあります。改善活動を行うに当たって、トップダウンのアプローチは1つの方法です。若い人の言うことを聞かないトップは多く、少しでも年齢を重ねた上で、ある程度の役職を持ってアプローチしたい考えです。こうやって、若い人の苦労をなくしていきたい。そして、若い人は、新たに生み出されたり、どうにもならないしがらみの苦労をただ甘んじて受け入れるではなく、どうやったら楽になるのかを考え、改善していって欲しいと願っています。

自分は、多分、適当に苦労をして生きてきたようなのですが、あまり苦労を感じずにやってきてしまったために、課題・問題が分からないまま過ごしていることも多いです。しかし、廻りを見ていると、「嗚呼、苦労してるんだなー」と分かるときがあって、その課題を解決することを優先して、この20年間やってきました。他人に苦労を掛けながらと言うこともありますが、自分もチームのメンバーも楽ができるように、これからも実践していきます。

勉強

中学までは一切やらなかったなーと言うのは大後悔時代です。プログラミングは中学から本格的にアセンブラまでやっていましたが、学校の勉強は、順位ど真ん中で偏差値も 50ちょいです。もったいなかった。

高専に入ってからは、バイトに命を賭ける反面、勉強をどうやってショートカットして得点をとるか、という方向に走ってしまいましたが、プログラミング関係は寝ずにやり続けていたため、この辺の勉強は率先してする必要もなく、仕事にも十分に活用できて良かったと言えます。

ただ、語学、社会、数学、物理などどれも中途半端なことしか覚えていないため、今になって改めて、勉強をやり直したりしていることが多くあります。英語などその際たるものでしょう。大変です。会社に入ったときにTOEIC300点で、そこからやっと 615点まできたものの、自学自習も限度がありますし、モチベーションも続きません。せめて、入社時に TOEIC700点の猛者であったら、今は日本で働いていなかったかも知れません。英語だけではありません。物理や数学といった事象を解決するための勉学は、分析に必要な事象ですし、国語が苦手なのは文章を書いて相手へ物事を正確に伝えることができないといった弊害も生み出します。

個人的に、コンピュータに関わる勉強を必死にやった結果は今に至って、とても役に立っていると感じていますが、もっとできただろう、もっとやれることがあっただろうと後悔しています。いくら勉強してきても、高みを望んだときには後悔をするでしょうが、若いうちにできることはやっておけるだけやっておけば良かった、という後悔の念は、少しでも減らしておくにこしたことはないでしょう。今からでも勉強はできますが、年を取ってからの勉強に割り当てられる時間は限られています。勉強に多くの時間が割けるときに、より広い分野の勉強ができていると望ましいだろうと、だれもが考えていることを皆様にお伝えしておきます。

結婚

若いうちに結婚しておいて良かったです。

なぜなら、子どもを若いうちに育むことができたからです。若い頃は体力もあるので、多少の無茶も効きますし、より手のかかる小さいころを体力だけでやりくりできます。年を取ってからの場合は、財力でなんとかすることもできるでしょうが、体力があるうちに小さい子どもたちを育てきってしまう方が、後が楽だと感じています。

我が家の場合、35歳で 4人目が少し離れて生まれてきましたが、親の体力の限界も感じていますし、上の娘たちがいて手伝ってくれている割には、上の三人を育てているときよりも疲労度が異常に高いです。多分、財力を使って、他の人に面倒をみてもらうようにしたところで、若い頃の育児よりも疲れるもんじゃないかなと、そう考えています。

そして、親が若いと子どもは喜びます。授業の見学や、入学・卒業式などで、親と子どもの友達と会うときもあるでしょうが、そのようなときに、親が若いと言うだけで評価は高いです。子どもにとって、親の評価が高いのは嬉しいことまりますが、何より反抗が少ないというのもあります。ただでさえ厄介で面倒な育児ですから、その中でも特にやっかいな反抗期は、うまいことやりすごしたいですよね。若いと言うだけで反抗期が来ないわけでもありませんが、「自分の親が他人から見たときに評価が高い」ことで、多少はこの反抗期を和らげる効果はあると感じてます。実際、親にそこまで反抗されたことないですし。子どもはどう考えてるか知らないけど。

まとめ

若いうちに結婚して苦労をして、ひっしに勉強しなければならない時期をすごしてきた結果が、今の私です。自分を肯定するためには、自分と同じ所業を人にも求めます。こどもたちには、よく勉強をして、はやく結婚をしろとは言いますが、自分を肯定するためだけにも感じていて、親のエゴをそのまま子どもに伝えているようにしか感じないこともままあります。

ただ、自分が正しいと感じたこと、悪いと感じたこと、これらは正しく子どもに伝えられるよう、誠実に生きていきたいと考えています。

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