わかったつもり 読解力がつかない本当の原因

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私自身の問題点として、適当に理解してその気になってしまう、ことが多々あります。
問題点ではありますが、これが功を奏してうまくいくこともありますが、大失敗につながる場合もあります。

分かった上で、適当な理解で済ませてしまうのか、何も分かっていない状況で適当な理解で済ませるのか、おのおのの特性が分かった上で、どのように対処することができるか、それを求めてこの本を取ったと記憶しています。

[目次]

第1章 「読み」が深まらないのはなぜか?
短い物語を読む
「わからない」と「わかる」と「よりわかる」 ほか
第2章 「読み」における文脈のはたらき
文脈がわからないと「わからない」
文脈による意味の引き出し ほか
第3章 これが「わかったつもり」だ
「全体の雰囲気」という魔物
「わかったつもり」の手強さ
第4章 さまざまな「わかったつもり」
「わかったつもり」を作り出す“犯人”たち
文脈の魔力 ほか
第5章 「わかったつもり」の壊し方
「わかったつもり」からの脱出
解釈の自由と制約 ほか

[気になったところ]

「読み」が深まらないのはなぜか
  1. 文章や文において、その部分間に関連がつかないと、「分からない」という状態を生じます。
  2. 部分間に関連がつくと、「分かった」という状態を生じます。
  3. 部分間の関連が、以前より、より緊密なものになると、「より分かった」「よりよく読めた」という状態になるのです。
  4. 部分間の関連をつけるために、必ずしも文中に記述のないことがらに関する知識を、また読み手が作り上げた想定・仮定を、私たちは持ちだしてきて使っているのです。

結果、「わかったつもり」を生み出す

文脈のはたらき
  1. 文脈が分からないと分からない
  2. 文脈がスキーマを発動し、文脈からの情報と共同して働く。
  3. 文脈がそれぞれの部分の記述から意味を引き出す。
  4. 文脈が異なれば、異なる意味が引き出される。
  5. 文脈に引き出されたそれぞれの意味の間で関連ができることで分が分かる。

結果、「文脈」には「理解」を支配するだけの、大きな力を持っている。

間違った「分かったつもり」
「部分が読めていない」
明確な文脈が存在する場合、部分的に不明確な部分があったとしても「間の行」を勝手に読んでしまって、それが「不充分な読み」「間違った読み」を生み出す。
「最初から」という分かったつもり
結果を重視するあまり、途中の「変化」に気がつかずに「わかったつもり」になって自己解釈をしてしまう。
ここでの例としては、もともとは仲が悪くけんかばかりであったが、最終的に仲が良くなっていった場合。結果を見た段階で、「最初から仲が良かった」と勘違いしてしまうパターンです。
「いろいろ」というわかったつもり
「いろいろあるのだな」と認識した次点で、人はそれ以上の追求をやめてしまう。
「わかったつもり」を見極める
読んだ文章を自分なりに「まとめ」てみる。
その「まとめ」が稚拙で簡単なものであった場合に「ステレオタイプのスキーマによる魔物」 [I]内容が「ああ、あれだな。」は特に注意 「文章構成から誘われやすい魔物」 [II]文章構成でミスリードされる場合 に搦め取られている可能性がある。
「きれいごと」には要注意
文章を読んで、概略や解釈を述べるときに「当たり障りのないきれいごと」が出てきたら要注意。

自己解釈による勝手な解釈が多い、ということを自分で理解して行かないとダメだな。オレ。
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References

References
I 内容が「ああ、あれだな。」は特に注意
II 文章構成でミスリードされる場合

“わかったつもり 読解力がつかない本当の原因” への2件の返信

  1. なんか面白そうだな。
    オレの興味は逆で、わかったつもりにさせることにあるのだが。

  2. わかった「つもり」にさせたいのならば、役に立つかも。

    あいてに、確実に理解させたいのならば、藤沢晃治氏の「分かりやすい」シリーズ三部作がよいと思われ。
    表現・文章・説明がある。

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