[不惑] 今年も齢を重ねてしまいました [人生折り返し]

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不惑です。惑わされず、と書いて「不惑」のはずです。
ちな、ふわく【不惑】の意味 – 国語辞書 – goo辞書 によると

 1 物の考え方などに迷いのないこと。
 2 《「論語」為政の「四十にして惑わず」から》40歳のこと。

とのことです。はい、そうです。40になりました。公には 0x28歳になりましたと説明しています。気分的には、まだ前回の前厄24歳からそれほど変わっていません。妻子持ちであること自体の変わりもないですし。はい、そうです、前厄でもあります。確かに、意味不明の出血や倦怠感、体力の低下を感じること多々ありますが、肉体年齢的には 20代だそうです。20代のママ生きたいですね。

齢を重ねることに意味はあるのか

個人的に意味は無いです。童顔で、ダイエット成功中のオレに「不惑」という称号を与えられたところで、世間の第一印象は 20代 です (サンクスにおける、レジカウンターでの年齢ボタンから推測) 。そんな私に「不惑」であるとか「妻がいる」とか、「娘が四人居る」という情報は、初対面の人へのインパクトアタックにはなりますが、それ以上の意味はありません。人見知りの私としては、アイスブレークにはちょうど良いのですが、「娘が沢山いる」というのは相手にとって良い情報たり得ない場合もありますし、若作りによる外見は、見た目に劣等感を抱いているモテないおっさんには不愉快にもうつるはずです。いえ、不愉快でしょう。

ALFEE も結成40年

そう、結局、このような情報など自分と比較して、劣等感を与えたり、優越感を与えるだけの情報で、普通に生きていくにあたっては、他人へ開示する必要のない情報です。そのため、ビジネスを進めて行くにあたって「上下関係を明確にする」年齢情報は、色眼鏡を掛けるだけの不要な情報にすぎないと感じています。技術屋としては、その持っている技術だけで勝負できることが望ましく、年齢やバックグラウンドなどは不要です。

しかしながら、和を尊ぶ国日本では、このようなパーソナルな情報は情報戦、心理戦においてとても重要であり、活用しないわけにもいきません。見た目と年齢のギャップや、任務の遂行状態や、外見から判断の付かない私生活というものは、相手にとっての「不安感」を誘い、攻撃の手を和らげる効果を持っています。また、「子だくさん」という状態は与えられる業務の緩和や、「ボク仕事できないもん(´・ω・)」の理由としても大いに活躍します。いや、別に仕事さぼってないけど(´・ω・)ないもん。

と言うことで、本来からいけば「齢」など言う情報は、生きていくにあたって必要ではないと考えつつも、自分がこの東京砂漠でのらりくらりと生きていくには必要不可欠な情報であり、意味がないとも言いがたいと感じています。世の情報・心理戦はこわいですね。めんどくさいので、そーゆーのいらない気もしますけど、相手と仲良くなるには重要なファクターの一つでもありますね。ぁぁ、こわい。

「不惑」になるとなにが変わるのか

「年を取ったところでなにも変わらない」

と言いたい人が大半だと認識していますが、この「年齢」ほど自我に与える影響のおおきいものはないと考えています。
例えば、「ボク 24歳ニートヽ(´ー`)ノ」と「わし 46歳じじいニート(´・ω・`)」の与えるインパクトの大きさといったら尋常じゃありません。前者はまだ期待が感じられるものの、後者には絶望しかありません。20歳の大学生が居酒屋で騒いでいるのと、仕事してない団塊の世代が居酒屋で騒いでいるのとでは、受ける意識もインパクトもなにもかも違います。

技術屋として言えば、「20歳の書いたアウトプット」と「50歳の書いたアウトプット」というものも、各自、とんでもない色眼鏡を通じて見られることでしょう。20歳のエンジニアが、apache のインストール手順を公開することと、50歳のエンジニアが、同等のインストール手順を公開した場合、どのように受けとるでしょうか。「情報」だけでみた場合、内容は変わらず同じなので、必要な情報を漁っている「だけ」のgoogler にはどうでも良いことでしょうが、「人」の情報を読み取っている場合に、20代と50代が同じようなアウトプットをしていたときに受ける印象はどうでしょうか。将来ある20代に的を射るのが通常でしょう。50代が同じようなレベルでのアウトプットしかできないのであれば、「今までなにしてきたんだろう…ご愁傷様…」となりませんか? あたしゃなりますよ。50代のエンジニアなら、それ相応のことをアウトプットしてもらいたいです。

ですから、個人がもたらした結果に対して「年齢」は意味のあるものではありませんが、「人」を見られた場合に「年齢」という情報は重要です。「なにも変わらないよーhehehe」なんて言ってる裏では「(やばいよ、40とかどうすんのよ)」という精神的ストレスにさいなまれます。
特に日本人は、そう言ったギャップに打ち勝つ自信を持っていない人が多いので、40-50代の自殺人口は年々増加傾向で、40台以上の自殺者数の多い国日本です。
なんて言ってみて、実際に調べてみたら 警察庁発表 自殺者数の統計 によると、「健康問題」による自殺が大半でしたので、私の意見はさっさと覆されました。残念です。


男女別・年齢別自殺者数(平成25年中)

原因・動機別 自殺者数(平成25年中)

ということで、H15年の情報ですが、平成15年度年齢・加齢に対する考え方に関する意識調査結果 などありましたので、こちらも見てみますと5 高齢者としての認識の有無に面白いのがありましたので紹介します。

 ‑ 15 ‑
5  高齢者としての認識の有無(Q5)
 「高齢者としての認識の有無」についてみると、50 代で 13.3%、60~64 歳で 22.0%、65~74 歳
で 55.9%、75 歳以上で 85.6%が「あてはまっている(自分を高齢者だと思う)」としているが、65
~74 歳で 42.2%、75 歳以上でも 13.3%が「あてはまらない(自分を高齢者ではないと思う)」とし
ている。

いい年して「ボク、まだ若いもん(´・ω・`)」と考えている、私みたいな人はとても多いようで、裏の理由は分かりませんが、「とにかくボクはまだ元気、他の人と一緒にしないで」というボケている人が多いようです。要するに、年齢を意識しつつ、でもまだその領域に達していない、まだ若く見られたい(やらしい意味で)というあざとい高齢者が、私を含めて多いようです。

ということで、なんだかんだ言いながら、多くの人たちが「年齢」というものを意識して、その変えられない呪縛から逃れようと必死なことが見てとれます。ちゃんちゃらおかしいですね。自分の年齢に自信がないと結論づけていいです。個人的に。はい、私がそうだからです。

御託はいいから「不惑」はどういう年にするのか

年をとると無駄話に花が咲きがちです。大昔に「読書感想文を書け」という宿題に対して、「原稿用紙 2枚とか多すぎるだろ」なんて考えていた時期もありましたが、現時点で既に原稿用紙8枚程度書いてます。url とかムダに長いのがあるので、それを取っ払ったところでも 6枚以上は確実でしょう。原稿用紙 6枚も無駄話を続けられる年齢になってしまいました。年をとるってこわいです。

ところで、朝から晩までずっとしゃべってる、我が長女ですが、年取ったらどうなるのかと、今から不安です。うるさすぎて、今でも迷惑なのに、これが 40になったとき、どうなるんだろう、と不安です。

40歳という位置づけについて

閑話休題。
40歳という位置づけについて考えてみます。私にとっては、とても節目に当たる年になります。

1995年に 20歳の若さで業界に入り、社会人として歩み続けてきました。歩んでます。走ることはしてません。今年、40歳になり、来年の4月1日をもって、20年勤続と言うことになります。ちょうど、「子ども」としてすごしてきた 20年と、「社会人」として歩んできた 20年という人生折半の年に当たるわけです。ついでに前厄です。

不思議なもので、とても長く感じた 0-20歳と、仕事・結婚・育児と多くのイベントを伴った 21-40歳が同じ期間であると認識することができません。子どもの頃、土曜日の半ドンが終わって、夕方まで遊んで家に帰るとき、13-17時の時間の長さの、その異常さに心打たれました。土曜日最高すぎる、なんでこんなに遊べる時間があるのだろうかと。

今、日曜日の午後は大体同じくらいの時間、部屋と水槽の掃除に充てていますが、非常に短い。下手に昼寝なんぞしたら、午後なんて一瞬で過ぎ去ります。

このちがいは何でしょう。未だによく分かりませんし、理解もしたくありませんが、少なくとも「時間」としての進み方は変わっていないはずで、自分の「意識」だけが変わっているはずです。もしかしたら、脳内クロックが遅くなっている可能性もありますが、そうだとしても与えられた時間自体に変わりはありません。

従って、この「意識」によるちがいは、大いに、その人生の位置づけを変えてくるものと考えています。
与えられた時間は同じだけれども、個人の感じる、認識する時間の概念自体が、もう20歳の頃とはちがうのです。たぶん、きっと、これから齢を重ねていくに連れ、この時間の概念は更に短く、少なくなっていくことでしょう。それでも、人生80年で考えれば、やっと折り返し地点です。まだ半分です。ひよっここの上ないですね。人生まだまだ先は長いとも、もう半分かとも受け取れます。
少なくとも、この折り返し地点において、「時間の概念が変わっていくことを受け止め、今後、どうやって残り半分の人生を豊にしていくか」は、この「不惑」に与えられた試練そのものでしょう。

人生においてのターニングポイント、と位置づけます。

では、具体的に「不惑」の年になにをなし得るか

例えば、会社では昇進パッケージを書いて、昇進試験に合格することとか、TOEIC が 720を超えることなどは、具体的な目標としてありますが、これは「不惑である」こととは一切関係ないです。会社生活の中で、目標と計画にただマッチした目標が、それであっただけです。
では、先に考えたように、人生折り返し地点の「不惑」として何をするか。

なにもしない

ヽ(・ω・)/ズコー

なにもしないんです。だって、結局ただの通過点じゃないですか。これまでにいろいろ書いて、重要な年であるとか、折り返し地点だのなんだの書いてきましたけれども、そもそも人生80年は決まって約束されてないですし、さっくり明日死ぬかも知れませんし。わざわざ 40だからといって、そこで何かをもったいぶって目標立てることもないんじゃないかなと考えてます。

いや、もちろん、今年立てている目標に対しては、その実現のために実行しますが、「不惑だから、人生の後半に向けて何かをしなければ」と言うことについては、特に何かをしようとは考えてません。あえて何かを言うとしたら「今日をがんばって生きる」ことくらいで、これはむかしから考えてることです。

あたしの座右の銘は「人生すなわちこれゲーム」@翔丸 なわけです。日々、ゲームをどうやって楽しんで生きていくか、それだけを考えているので、その時点を楽しくがんばって生きていくこと自体は、「不惑だから」というのは関係なく、これからもずっとこのまま生きていくのです。

おわりに

こんな中二っぽいコト書いてみたら面白いかと思って書いてみました。意味はありません。

年をとると、ムダに長くなっていけませんね。今年はもう少し要約する力を持とうと思います(うそ☆(ゝω・)vキャピ

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